December 02, 2018

[EVENT REPORT]

Ultimate Dining at Ryokan

Our first-ever food event entitled Ultimate Dining was held at the Chitose, Tottori in collaboration with the master chef Masashi Tasoda on November 29, 2018.

[イベント報告]

『極みの宿飯』はじまりのことば

わたしは主として暮らしを仕事とし、仕事を暮らしとしているから、日々闘っている。何と闘っているのかというと、それは怠慢とである。これでいいやという怠慢。いつもと同じでいいという怠慢。変化しないという怠慢。
 
旅館の業務のうち、この怠慢はごく多くを占める。変えない。動かさない。さわらない。商売を続けるためにはそうせざるをえなかったのだという判断は否定しない。しかしその判断そのものが歴史と伝統をつくりあげたのだという理屈には、首をひねることがある。その最たるものの例として、今回「食事」を取り上げた。
 
多くの旅館で採用されている、いわゆる旅館会席(懐石とは異なる)は、オペレーションの都合上とてもよくできたシステムだ。一括大量仕入れによる食材は無駄もなく、仲居さんが小鍋に火をつけるタイミングで終了時間も読める、まさに団体客をターゲットにした時代には最適のスタイルだった。
 
しかし現代のように家族で、カップルで、友達同士で旅行へ行く時代にこの旅館会席が通用するはずもなく、いつしか宿泊は素泊まりで、食事は土地の名店に足を運ぶという泊食分離のスタイルが選択肢の上位にくるようになった。旅館の立場としてその流れを止めることも否定することもできないのは、やっぱりどこかで「旅館の怠慢」を認める気持ちがあるからかもしれない。

 

では一体どんな料理を出せば、「旅館で一泊二食したいね」となるのか。それが今回のメインテーマである。だからといって、どんな料理?どんな食材?どんなメニュー?と料理のことばかりを掘り下げるつもりはなかった。わたしたちがまず考えたのは「旅館の価値とは何か」ということだった。
 
つまり、
・なぜホテルではなく旅館に泊まるのか
・人は旅館に何を求めているのか
・旅館にしかないものは何か
そういった本質の部分をさぐった延長線上に「食」に対する答えがあるのだと考えた。
 
食卓の風景だけではなく、衣食住そのものがグローバル化された時代に生きるわたしたちにとって、旅館はもはや単なる宿泊施設ではなく日本文化そのものを知る・味わう・体験するためにある“総合文化施設”といっていい。いや、となる可能性がある(に留めておく)。そこに未来の旅館のほんとうの価値は集約されるのではないだろうか。そしてその価値はわたしたち自身が決めるのではなく、都会に住む子どもたちや、外国からの旅行者といった「外の目」が決めていくのだ。

その前提に立って『極みの宿飯』とは何かを考えていくと、

・郷土の調理法をベースに
・その土地の食材をつかい
・家庭では作れない
・驚きとアイデアをちりばめた
・その日その季節にしか味わえない料理
という仮説となった。

だが堅く考える必要はない。料理人、多曽田聖志はこのテーマを楽しんだ。長年和食の修行を積み、旅館での調理も経験していることもあり、食材とお客様のあいだにある目隠しのような迷路を何度もくぐり抜けてきたという自負がある。多曽田氏の頭の中にはあるひとつのルートが浮かんでいた。それは食材とお客様をつなぐゆるやかな直線ルート。その道のりには山陰の田園が広がり、岩清水の森と旧市街の蔵並みがあり、海峡をわたる螺旋の山陰ブリッジを最後に越えるというドリームルートである。
 
つまり「食」を届けるということは、わたしたちが住む山陰を届けるということである。そして山陰を届けるのであれば、日本列島を見渡すことも必要であるし、世界の中での日本という視野ももたなければならない。それがわたしたちが探し求める“ここでしか味わえない食事”のレシピであり、かつ旅館のもつ根源的な価値を測るものさしである。
 
同じことが建築にもいえるし庭にもいえるし仲居の人がらにもいえる。小林屋はこれから5年、10年かけて『再興-Revision』プロジェクトに入る。昭和と平成の垢を落とし、旅館を構成するひとつひとつの要素を見直していこうと思っている。心配はない。敵はただひとつ、おのれの怠慢だけなのだから。
 
小林屋C.D. 永本冬森